秦腔とは俗に乱弾とも呼ばれ、西安を中心とした西北地区で有名な地方芸能である。
悠久の歴史を持つ秦腔は、その歴史的発展の中で、各地の民の言語環境や生活習慣の違いと結びついて、様々な流派を生み出して来た。
例えば、清の乾隆年間には、渭河(黄河の支流)以北と以南に大きく分かれる流派があった。さらに、前者の渭北派の中には同州腔、後者の渭南派の中には渭南腔、礼泉腔、周至腔などがあった。さらにその後、それらが東府秦腔(同州木邦子とも呼ばれ、大茘、蒲城一帯で盛んである)、西府秦腔(宝鶏、鳳翔、岐山、隴県、甘粛省天水一帯で盛んである)、西安秦腔(西安及びその近辺で盛んである)、南路秦腔(陝南漢中地方で流行っており、漢調桄桄とも呼ばれる)などに分かれたと言われている。
ただし、西安は陝西地方の交通に恵まれた要衝で、経済と文化の中心地ということもあって、これら各流派の中でも西安秦腔が、芸術的発展の機会に最も恵まれて来た。今日、一般に秦腔と言う時、いわゆるこの西安秦腔を指すことが多いようだ。
さて、中国全国でこの秦腔の名を高めるきっかけを作った者に、魏長生という人物がいた。もともとは四川人であった魏長生は、少年時代(1757 年頃)に親に従って陝西省にやって来て、現
在の陝西省・大茘や蒲城辺りで民間にあった秦腔戯班(当時の劇団)に加わり、秦腔役者の道を歩み始めた。その後、秦腔の名優として成長した魏長生は、清の乾隆年間に幾度も自分の秦腔班を率いて北京を訪れ、北京の舞台で当時盛んであった京腔(弋陽腔が変貌して出来たと言われている演劇)を圧倒した。
さらにその後、全国を遍く走破した魏長生は、秦腔の存在感を全国的に高めて、形成期の京劇にも大きな影響を与えた。この魏長生などの働きによって、秦腔は清の乾隆年(1736~1795)
に一つの黄金時代を迎えて、全国の多くの地域で秦腔班社(当時の劇団)が数多く作られた。西安地方だけでも約36 もの秦腔班社が存在していたと言われているから、当時の秦腔のその盛況振りは大変なものであったことが覗われる。
その後、秦腔はかつての乾隆年間ほど全国的な演出活動をすることが徐々になくなって、主に陝西省を中心とする地方を根城とするようになって来たが、清の光緒年間(1875~1908)になっ
ても陝西省近辺でのその勢いは大変盛んだった。
そして、辛亥革命の翌年の1912 年に西安易俗社が創設されると、豊富な人材を擁し、民主主義革命思想に基づいた近代的組織を持つ西安易俗社によって、秦腔は多くの改良を加えられ、中国演劇史に様々な影響を与えた。